宝永地震とは?3つの教訓と今日の備え【保存版】

宝永地震とは?3つの教訓と今日の備え【保存版】
こんにちは。「ふくしまの防災 HIH ヒカリネット」防災士の後藤です。
10月28日は、300年以上前の1707年(宝永4年)に、宝永地震が起きた日です。前回の南海トラフ地震である昭和南海地震(1946年)からは、約80年がたちました。
南海トラフの話になると必ず名前が出てくる宝永地震ですが、「どれくらいの規模だったの?」「東日本大震災と比べるとどうなの?」「富士山の噴火と関係があるって本当?」と聞かれると、意外と答えに迷いますよね。この記事では、内閣府や気象庁などの公的な資料をもとに、順番に整理していきます。
宝永地震は南海トラフの広い範囲が連動した巨大地震で、49日後には富士山も噴火しました。
この記事でわかること
- 宝永地震は1707年10月28日に起きた、M8.6と推定される巨大地震(震源域は遠州灘沖から四国沖)
- 規模も津波の最大遡上高も東日本大震災(Mw9.0)のほうが上。ただし宝永地震は“西日本版”と表現される
- 富士山の宝永噴火は49日後。地震がきっかけとみられるが、必ず噴火する単純な関係ではない
- 3つの教訓は「まず高い所へ」「避難先を選ぶ」「前兆に頼らない」。今日からできる備えもまとめました
宝永地震はいつ起きたのか史実をたどる

宝永地震とは、1707年(宝永4年)10月28日に、遠州灘沖から四国沖の南海トラフ沿いで発生した巨大地震のことです。
旧暦では宝永4年10月4日にあたり、時刻は午後2時頃とされています。ただ、地域ごとの史料を整理すると、近畿・四国・九州では13時頃、中部・関東では14時頃がピークで、約1時間の時差があります。このため、断層の破壊が南海側から東海側へ東向きに進んだ可能性も指摘されています。「午後1〜2時頃」と覚えておくと安心です。
被害の広がりも特徴的でした。内閣府の報告書では、宝永地震の被害は江戸時代の地震被害のなかで最も広域で、しかも多様だったとされています。揺れ、津波、地盤の沈降、山崩れ、そして49日後の富士山の噴火まで、さまざまな災害が重なった地震でした。
宝永地震のマグニチュードと震度

宝永地震の規模は、マグニチュード(M)8.6と推定されています。ただし、これは当時の記録をもとにした推定値です。確定した値ではないので、「M8.6と推定」と覚えておいてください。(出典:内閣府『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1707 宝永地震』)
揺れの強さ(震度)も、当時は計器がなかったため、古文書に残る建物の被害などから推定されています。その結果、震度5以上の揺れに見舞われた範囲は非常に広く、震度7と推定される場所もあったと考えられています(気象庁の資料)。
注目したいのは、震源から離れていても被害が大きかった場所があることです。奈良盆地、長野県の飯田、東大阪の旧大和川流域、熊本の人吉盆地など、沖積層(川が運んだ柔らかい土砂)が厚くたまった地域では、建物の倒壊などの被害が目立ちました。
防災理科のポイント:揺れの強さは「地震の大きさ」だけでは決まりません。一般に、柔らかい地盤の盆地では、ゆっくりした揺れが長く続くことで、建物が共振して壊れやすくなります。マグニチュードは「地震そのものの大きさ」、震度は「その場所での揺れの強さ」です。自宅の地盤の性質も、備えを考える材料になりますよ。
宝永地震と東日本大震災どっちが大きい

結論から言うと、規模は東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)のほうが大きいです。ただ、宝永地震は西日本で歴史上最大級の地震で、内閣府の報告書は、東北地方太平洋沖地震の“西日本版”と表現しています。同じ「プレートの境目で起きる海溝型の巨大地震」なんですね。東日本大震災の発生までは、歴史上規模が推定できる地震のなかで日本最大だったとされています。
2011年3月11日、私は福島で東日本大震災を経験しました。あの日を経験した者として、この表現には軽く読み流せない重みを感じます。
| 項目 | 宝永地震 | 東日本大震災 |
|---|---|---|
| 発生 | 1707年10月28日 午後1〜2時頃 | 2011年3月11日 14時46分 |
| 規模 | M8.6と推定(史料からの推定値) | モーメントマグニチュード9.0 |
| 震源域 | 遠州灘沖〜四国沖(南海トラフ沿い)。東端が駿河湾に及んだかは説が分かれる | 余震域は長さ約500km、幅約200km(日本海溝沿い) |
| 揺れ | 計器の観測なし。被害から広い範囲で震度5以上、震度7と推定される場所も | 宮城県栗原市で震度7を観測 |
| 津波 | 高知県の海岸部で最大約15m。須崎市安和では谷あいを約22.6m遡上したと推定 | 宮古市で遡上高40.5m。相馬で9.3m以上を観測 |
| 犠牲になった方 | 5千人以上とされ、記録により大きな幅がある | 死者19,787人・行方不明2,549人(消防庁、令和8年3月1日現在、震災関連死を含む) |
| 位置づけ | 東日本大震災の発生まで、歴史上規模が推定できる日本最大の地震 | 国内観測史上最大 |
宝永地震の「M」は史料からの推定値、東日本大震災の「Mw」は観測にもとづく値なので、単純には比べられません。それでも、規模も津波の最大遡上高も東日本大震災のほうが上、というのが整理です。ただ、宝永地震は「西日本でも、巨大な海溝型地震が起こりうる」ことを示した歴史です。
宝永地震の被害と津波の高さ

内閣府の報告書の集計では、犠牲になった方は5千人以上、全壊した家屋は5万軒以上、流失した家屋は2万軒近くにのぼります。ただし、実際の被害はこれより数割多い可能性があるとされています。特に大坂(現在の大阪)の記録は史料によって数字が大きく異なり、その採り方で全国の犠牲者数が1万人を超える数字にも、2万人台にもなります。正確な人数は、今も確定していないんですね。
被害の大きな部分は津波によるものでした。津波の高さは地点ごとに推定されていて、たとえば次のとおりです。
| 地域 | 推定される津波の高さ |
|---|---|
| 高知県の海岸部 | 約5〜15m(土佐清水で最大約15m) |
| 高知県の谷あいなど内陸への遡上 | 須崎市安和で約22.6m |
| 三重県の熊野灘沿岸 | 新鹿で8〜10m、尾鷲で6〜8m |
| 和歌山県の沿岸 | 5〜7m前後 |
| 静岡県の伊豆・下田 | 5〜6m |
| 大阪(道頓堀周辺) | 2.5〜3.6m程度 |
| 九十九里浜(千葉県) | 1〜1.5m程度 |
津波が来るまでの時間は、場所によって大きく違いました。波源に近い地域では地震から5〜10分ほどで津波が来襲し、九州東部では1時間ほどで数mの津波が届いています。長崎では揺れの数時間後に津波が届き、町に二尺(約60cm)ほどの浸水があったと記録されています。津波は瀬戸内海にも、1m以上の高さを保って奥まで入り込みました。最も被害が大きかった土佐(高知県)では、沿岸の約200の集落のうち約6割(59%)が、全滅またはそれに近い被害を受けたとされています。
宝永地震の数字は、すべて古文書や津波の痕跡からの推定です。資料によって幅があるため、この記事では「とされています」「推定」と書いています。正確な数値は、各省庁・自治体の公式資料でご確認ください。
震源地と南海トラフ連動のメカニズム

宝永地震の震源域は、遠州灘沖から四国沖にかけての南海トラフ沿いです。ここでは、フィリピン海プレートが陸側のプレートの下へ、年に4cmほどの速さで沈み込んでいます。日本海溝で太平洋プレートが年10cmほど沈み込むのと比べると、半分以下の速さです(内閣府の報告書)。
プレートが沈み込むとき、境目は固着して陸側が引きずり込まれ、ひずみ(エネルギー)が少しずつたまります。それが限界に達して、バネがはね返るようにずれ動いたときに起きるのが、海溝型の巨大地震です。
宝永地震では、複数の領域が一度に壊れる「連動」が起きたとされています。ここで大切なのは、連動は「2つの地震が別々に起きた」のとは違う、という点です。二つの領域にまたがる地震は、一つの領域だけの場合に比べて、震源域でのずれ量がほぼ倍になり、津波のエネルギーも格段に大きくなると、内閣府の報告書は説明しています。実際、大坂の道頓堀付近でも、宝永の津波は安政南海地震の津波より高かったと推定されています。
| 地震 | 発生年 | 規模(推定) | 特徴 |
|---|---|---|---|
| 宝永地震 | 1707年 | M8.6 | 東海〜南海にかけて広く連動したとされる |
| 安政東海地震・安政南海地震 | 1854年 | それぞれM8.4 | 約1日半の間隔で2つの地震 |
| 昭和東南海地震・昭和南海地震 | 1944年・1946年 | 昭和南海はM8.0 | 約2年の間隔で2つの地震 |
毎回同じ起き方をしないのが、南海トラフの特徴です。宝永地震の震源域は、東海から南海まで広く連動したと説明されることが多いのですが、近年の研究では、東端は駿河湾の奥までは達せず、西端も足摺岬や日向灘には及ばなかった可能性が指摘されています。見解が分かれているため、断定せずに「とされる」と書いておきますね。
地震のあとには、大地そのものも動きました。高知県の室戸では2〜2.5mほど隆起した一方、浦戸湾のまわりでは約20km²の範囲が最大2mほど沈降し、水に浸かったままになったとされています。道後温泉も145日間、湧き出しが止まりました。沈降した土地が水に浸かったままになると、津波が引いたあとも暮らしの再建は難しくなります。
宝永地震と富士山噴火の関係

宝永地震の49日後の1707年12月16日(旧暦11月23日)、富士山が南東斜面で大噴火しました。これが「宝永噴火」です。噴火は約16日間続き、火山灰は火口から約100km離れた江戸にも降り、約120km離れた千葉県の市原付近でも約8cm積もったと推定されています。宝永噴火は、現在のところ富士山の最後の噴火でもあります。
では、地震が噴火の引き金になったのでしょうか。内閣府の報告書は、宝永地震と噴火には関連があったと見るのが自然だとしています。同じ内閣府の『1707 富士山宝永噴火』の報告書も、地震が富士山の下のマグマに何らかの刺激を与えた結果、噴火が引き起こされたと指摘しています。一方で、地震のあとに噴火が必ず起きるという単純な関係は成り立たず、マグマに噴火の準備が整っていなければ噴火には至らない、とも説明されています。ですから私は、「きっかけになったとみられるが、いつもそうなるわけではない」と整理しています。
被害の面では、噴火による直接の人的被害は記録されていないとされています。ただ、山麓の須走村では75戸が倒壊するなど、家屋の被害は出ました。さらに、降り積もった火山灰は農地や用水路、川に大きな影響を与え、洪水や土砂災害といった二次災害が長く続きました。
宝永地震では、発生の翌朝に富士山東麓でM6.5程度の地震が起き、49日後には噴火が始まりました。非常に大きな地震のあとは、別の地震や噴火、土砂災害などにも注意が必要です。「地震が終わったから安心」ではなく、しばらくは気を抜かない、という意識が大切です。
火山灰が生活にどんな影響を及ぼすのか、マスクやゴーグルなど家庭でできる備えについては、火山灰対策の完全ガイドにまとめています。富士山の降灰に備えたい方は、あわせて確認してみてください。
宝永地震後の復興と社会の対応

被害を受けた各地の領主(藩)は、それぞれ救済に動きました。土佐藩では、命が助かった人たちに、米を男性は3合、女性は2合を基準に、30日分または45日分支給したと記録されています。須崎の下分では、被害のあと町ごと山のほうへ移ったという記録もあります。三重県の尾鷲では、まず食料、次に最低限の道具、さらに年貢の免除や仕事の元手の貸し付けと、段階を踏んで生活の再建を支えています。
それでも、復興は簡単ではありませんでした。尾鷲では2年たっても、被災した人の約8割が小屋掛けの生活だったとされています。津波で家財がすべて流されると、元の暮らしに戻るまで十年単位の時間がかかると、報告書は指摘しています。経済や交通にも影響が出ました。浜名湖の新居では、津波で関所が流されて渡し船の航路が長くなり、旅人が姫街道(本坂越)へ迂回するようになって、東海道の本街道は10年たっても敬遠されていたといいます。
翌宝永5年(1708年)には、噴火の被災地の救済と復興のために、幕府が全国に課す形で高役金(諸国高役金)を集めました。内閣府の報告書は、これを従来にはない租税形態として注目しています。また、降灰で年貢を納めるのが難しくなった小田原藩領などの被災地を、幕府がいったん引き取って救済にあたり、酒匂川の川浚いも外様大名に費用を負担させて進めました。
大きな被害のあと、人々は「記憶を残す」ことにも力を注ぎました。宝永津波の直後から、犠牲者を供養し、後の世に教訓を伝えるための碑が各地に建てられ、今も残っています。内閣府の報告書は、こうした碑を貴重な一級の史料と位置づけています。三重県紀北町の長島・仏光寺にも津波碑があり、「今後、大地震のときは覚悟しておくように」という趣旨の戒めが刻まれていると伝えられています。
宝永地震の教訓を今日の備えにつなぐ

ここまで見てきた宝永地震の記録から、私は教訓を次の3つに整理しました。
宝永地震の3つの教訓
①揺れたら、まず高い場所へ向かう(津波は数分で来ることも)
②避難先が安全とは限らない(川・船・低地は要注意)
③前兆や言い伝えに頼らず、記録と日頃の備えで動く
この3つを、現代の備えにどう置き換えるかを見ていきます。
宝永地震から続く南海トラフの課題

宝永地震は過去の話ですが、南海トラフの地震は、これからの話でもあります。気象庁によると、南海トラフ地震は概ね100〜150年の間隔で繰り返し起きてきて、前回(1944年・1946年)から約80年が経った今は、次の発生の切迫性が高い状態とされています。
地震調査委員会は2025年9月、今後30年以内の発生確率を「60〜90%程度以上」と見直し、別の計算方法による「20〜50%」も併記しました。2026年1月1日時点の評価でも、この2つの数字が示されています。数字が2つ並んで分かりにくいのですが、どちらの計算でも最も高い「Ⅲランク」に分類されています。気象庁も「いつ起きてもおかしくない次の南海トラフ地震に備えましょう」と呼びかけています。
国の被害想定(2025年3月)では、最新の科学的知見に基づく最大クラスの地震・津波の最悪のケースで、犠牲者は約29.8万人と想定されています。これは宝永地震の再現ではなく、最大クラスの想定です。一方で、早期避難の意識が低いと津波による犠牲者は約21.5万人と想定されるのに対し、全員が早期に避難を始めれば、この数は7割減ると試算されています。宝永地震が示したように、津波から素早く逃げられるかどうかが、被害を大きく左右します。
臨時情報の仕組みは、南海トラフ臨時情報の仕組みと4つのキーワードで詳しく解説しています。2024年8月には、日向灘の地震を受けて初めて「巨大地震注意」が発表されました。大切なのは、臨時情報が出ないまま突然地震が起きることもある、という点です。
宝永地震を踏まえた今すぐできる備え

宝永の記録を、いまの備えに置き換えるとこうなります。
| 宝永地震の記録 | 今日からの行動 |
|---|---|
| 地震から津波の来襲まで、5〜10分ほどだった地域があった | 揺れが収まったら、津波警報を待たずに高台へ。持ち出し袋は玄関に置いておく |
| 大坂では、余震を恐れて堀川の船に避難した人たちが津波で被害を受けた | 川や水辺を避難先にしない。高く頑丈な場所を選ぶ |
| 愛知県の国府や遠州灘では、津波の前に潮が大きく引いたと記録されている | 潮が引いても海へ近づかない。警報が解除されるまで戻らない |
| 柔らかい地盤の盆地や三角州で倒壊が目立った | 自宅の地盤を確認し、家具の固定や耐震化を進める |
具体的に、今週できることを挙げます。
- ハザードマップで、自宅・職場・学校の津波浸水想定を確認する
- 避難場所と、歩いて行くルートを家族で決める
- 持ち出し袋を、玄関などすぐ取れる場所に置く
- 水・非常食・携帯トイレ・ライト・モバイルバッテリーが入っているか点検する
- 大きな家具の固定を見直す
宝永地震の前兆を待つ備えの誤解

「宝永地震の前兆は?」と気になる方も多いと思います。珍しい自然現象を地震の前触れとして語り継ぐ言い伝えは、各地に残っています。ただ、そうした現象を地震の前兆と結びつけて判断するのは、慎重にしたほうがいいですね。
では、前兆を待てばよいのでしょうか。国の専門家による調査部会は2017年、南海トラフ地震について「地震の発生時期や場所・規模を確度高く予測する科学的に確立した手法はない」と整理しました。
気象庁は同年11月1日から、東海地震だけに着目した従来の「東海地震に関連する情報」の発表をやめ、南海トラフ全域を対象とする「南海トラフ地震に関連する情報」の発表を始めています。
「前兆を見たら動く」ではなく、「前兆がなくても動ける準備をしておく」が基本です。井戸水・動物の様子・季節外れの天候など、言い伝えの前兆に頼った判断は避けましょう。
宝永から安政までは147年。人の記憶は、それだけの時間があれば薄れてしまいます。安政南海地震のときにも、宝永の伝承を知っていた人は数多くいました。それでも被害が繰り返された場所があります。知っているだけでなく、いざというときに行動へ結びつけられるよう、記録を読み、碑を見て、家族で話しておく。それが記憶をつなぐ一番の方法なのだと思います。
津波はどこまで来るか家族で確認

宝永の津波は、場所によっては谷あいを20m以上かけ上がり、瀬戸内海や長崎まで海水が入りました。大坂では、津波が川や堀を遡り、道頓堀などで橋を壊しながら奥へ進んでいます。津波は「海のすぐ近く」だけを襲うわけではないんです。
しかも、避難した先で被害にあった例もあります。大坂では、余震を恐れて堀川に浮かぶ船に避難した人たちが、津波で船ごと押し流され、橋桁にぶつかるなどして、多くの犠牲が出たと分析されています。同じ理由での被害は、147年後の安政南海地震でも繰り返されました。津波のときは、川や水辺を避難先にしないことが鉄則です。
家族で、次の3つを確認してみてください。
- ハザードマップの「津波浸水想定」で、自宅・職場・学校の浸水の深さと到達までの時間を見る
- 川沿いや海沿いの道を避けた、高台や津波避難ビルへのルートを歩いてみる
- 地域に残る津波碑や、過去の津波の到達点の記録を探してみる
津波警報の見方や避難の基本は、津波防災の日(11月5日)の由来と家庭でできる津波の備えで整理しています。11月5日の津波防災の日は、家族で避難ルートを確認するよいきっかけになりますよ。
宝永地震の教訓と今日の備えのまとめ

宝永地震の教訓と、今日の備えを整理します。
- 宝永地震は1707年10月28日、M8.6と推定される巨大地震。南海トラフの広い範囲が連動したとされ、東日本大震災の“西日本版”とも表現されます。
- 被害の大部分は津波。高知では谷あいを20m超かけ上がった所もあり、長崎まで海水が入りました。
- 49日後に富士山が噴火。地震が噴火のきっかけになったとみられる一方、必ず噴火するという単純な関係ではないとされます。
- 3つの教訓は「まず高い所へ」「避難先が安全とは限らない」「前兆に頼らない」。
- 南海トラフの次の地震は、いつ起きてもおかしくない状況。「いつか」ではなく「今日」の備えが大切です。
災害の記録は、過去を怖がるためのものではなく、これからの命を守るための手がかりです。福島で東日本大震災を経験した防災士として、宝永の人たちが後の世のために書き残した言葉を、今に生かしていきたいと思っています。
この記事をきっかけに、ご家庭の備えも一度確認してみてください。
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宝永地震が教えてくれた備え

ご家庭の備えを、ここで一度確認してみませんか。
あなたの防災度チェック
- □ 揺れが収まったらすぐ高い場所へ向かう、と家族で決めている
- □ 川や水辺を避難先にしないよう、避難ルートを確認している
- □ 前兆や臨時情報の有無にかかわらず、水・食料・携帯トイレを備えている
- □ 持ち出し袋が玄関にすぐ持って出られる状態にある
- □ 家族全員で避難場所・連絡方法を確認している
宝永地震の教訓は「逃げる準備は、逃げる前に整える」ことを示しています。HIHの防災リュックは、その「準備」を始めやすいように、必要なものを整理しています。
主な参考資料:内閣府『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』(1707 宝永地震、1707 富士山宝永噴火、1854 安政東海・南海地震)、気象庁、地震調査研究推進本部、消防庁(東日本大震災の被害状況)、内閣府(南海トラフ巨大地震の被害想定)。数値は2026年10月時点の公的資料にもとづいています。
数値データはあくまで一般的な目安です。正確な情報は公式サイトでご確認ください。最終的な判断は専門家にご相談ください。
本記事は公的資料をもとに作成していますが、災害の記録は調査の進展により数値が変わることがあります。最新の正確な情報は各省庁・自治体の公式情報をご確認ください。また、掲載内容は特定の個人・団体を批判するものではなく、防災の教訓を共有することを目的としています。
よくある質問

Q. 宝永地震はいつ起きましたか?
A. 1707年10月28日(旧暦の宝永4年10月4日)の午後2時頃に起きました。地域別の史料では、近畿・四国・九州で13時頃、中部・関東で14時頃がピークだったため、午後1〜2時頃と考えておくと安心です。遠州灘沖から四国沖の南海トラフ沿いが震源域とされています。
Q. 宝永地震のマグニチュードと震度はどれくらいですか?
A. マグニチュードはM8.6と推定されています。当時は観測機器がなく、古文書に残る被害や津波の記録からの推定値で、震度も被害から推定されています。震度5以上の範囲は非常に広く、震度7と推定される場所もあったと考えられています。
Q. 宝永地震と富士山噴火は関係がありますか?
A. 宝永地震の49日後の1707年12月16日に、富士山の宝永噴火が始まりました。内閣府の報告書は、宝永地震と噴火には関連があったと見るのが自然だとしつつ、地震のあとに噴火が必ず起きるような単純な関係ではないとも説明しています。
Q. 宝永地震と東日本大震災ではどちらが大きいですか?
A. 規模は東日本大震災(モーメントマグニチュード9.0)のほうが大きいです。宝永地震はM8.6と推定される西日本で歴史上最大級の地震で、東日本大震災の発生までは、歴史上規模が推定できる日本最大の地震とされていました。
Q. 宝永地震のような地震は今後また起きますか?
A. 南海トラフでは概ね100〜150年間隔で大地震が繰り返し起きてきました。地震調査委員会は、2026年1月1日時点の評価で、今後30年以内の発生確率を「60〜90%程度以上」(別の計算方法では「20〜50%」)としています。ただし、次の地震が宝永地震と同じ起き方をするとは限りません。



