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南三陸町防災対策庁舎が伝える津波の記録と教訓

鉄骨の骨組みが残る南三陸町防災対策庁舎跡地を静かに見上げる親子のイメージイラスト

南三陸町防災対策庁舎が伝える津波の記録と教訓

こんにちは。「ふくしまの防災 HIH ヒカリネット」防災士の後藤です。

2011年3月11日。あの日のことは、福島で経験した私にとっても、忘れることのできない記憶です。

宮城県南三陸町では、そのとき一棟の建物が歴史に刻まれました。南三陸町防災対策庁舎。津波に飲み込まれながらも、最後まで住民への避難を呼びかけ続けた場所です。

この記事では、防災対策庁舎で何が起きたのか、なぜあれほどの津波が想定を超えたのか、そしてあの日の記録が今の私たちに何を伝えているのかを、ひとつひとつ丁寧にお伝えしたいと思います。

「知っていれば、もっと逃げられたかもしれない」。その一念で、防災士として書き続けています。

あの日、最後まで職務を全うした人たちがいました。 命を守るために、逃げずに伝え続けた「声」。 あなたはこの行動、どう受け止めますか? この出来事から学べることは、 「正しい判断が、命を分ける」ということ。 いざという時、あなたは動けますか? そのために、今できる備えを。

目次

南三陸町防災対策庁舎と津波の記録

海辺の町に建つ防災庁舎のイメージイラスト
ふくしまの防災 HIH ヒカリネット・イメージ

防災対策庁舎とはどんな建物か

南三陸町防災対策庁舎は、1995年(平成7年)に宮城県本吉郡南三陸町志津川に建設された行政庁舎のひとつです。

この建物が建てられた背景には、1960年のチリ地震津波があります。当時、南三陸町(旧志津川町)は高さ5.5メートルの津波に襲われ、町民60人が命を落としました。その教訓をもとに設計されたのが、この防災対策庁舎です。

【建物の概要】鉄骨造3階建て/海抜約1.7m/海岸から約600mの地点に立地/屋上の高さは地上から約12m/屋上には高さ5mのアンテナポールを設置。津波で1階が浸水することを想定し、2階に危機管理課と町災害対策本部を設置。屋上は避難場所として機能するよう設計されていました。

チリ地震津波の浸水深が約2.4メートルだったことを踏まえれば、屋上高さ12メートルという設計は「かなりの余裕を持った備え」に見えたはずです。過去の災害から学び、実際に形にした建物だったんですね。

ところが、2011年3月11日、その想定は根底から覆されることになります。

2011年3月11日に何が起きたか

午後2時46分、東北地方太平洋沖地震が発生しました。マグニチュード9.0、日本の観測史上最大規模の巨大地震です。

地震発生直後から、防災対策庁舎2階の危機管理課では、防災無線による住民への避難呼びかけが始まりました。気象庁が地震発生約3分後に発表した津波の予想高さは最大6メートル。建物の2階床面は海抜約6メートル弱あるため、庁舎内の職員たちは「3階まで上がれば大丈夫」と判断し、放送業務を継続します。

当時、庁舎内には約130名の職員が在庁していました。

しかし午後3時14分、大津波警報の予想高さが「10メートル以上」に引き上げられます。職員たちは一斉に屋上へと向かいました。屋上に避難したのは約40〜53名とされています(資料により差異あり)。

そして午後3時25分頃——。高さ約15.5メートルの津波が庁舎を直撃しました。屋上の床上約2メートルまで水位が達したとされています。屋上高さ12メートルの建物が、ほぼ完全に水没した瞬間です。

当初の津波予想(6m)と実際の津波高さ(約15.5m)の差は、約2.5倍にのぼりました。チリ地震津波(5.5m)を基準に設計された建物が、その3倍近い波に襲われたことになります。

最後まで流れたアナウンスの記録

防災無線で避難を呼びかける職員のイメージイラスト
ふくしまの防災 HIH ヒカリネット・イメージ

津波が迫るなか、防災対策庁舎2階の放送室では、危機管理課職員の遠藤未希さん(当時24歳)が防災無線のマイクを握り続けていました。

「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」

約30分間にわたり、62回もの避難呼びかけが放送され続けました。その音声はすべて録音されており、記録として残っています。

放送の途中、津波予想の高さは「最大6メートル」という内容が続いていましたが、最後の4回だけ「10メートル」という放送に切り替わっています。刻一刻と変わる状況の中で、遠藤さんはマイクを離さなかった。

音声の最後には、放送を続けようとする遠藤さんの声を遮るように「上へ上がって 未希ちゃん 上がって」という周囲の声が記録されています。そこで放送は途切れました。

遠藤さんの防災無線は、南三陸町の住民約1万7,700人のうち半数近くが避難する助けとなったとされています。多くの命が、あのアナウンスによって救われたのです。

遠藤未希さんの行動は後に広く知られ、防災教育の教材にもなっています。「自分より人のことを考える子だった」という家族の言葉が、彼女の姿を静かに伝えています。

屋上で円陣を組んだ生存者たち

屋上で互いを支え合う人々の円陣をイメージしたイラスト
ふくしまの防災 HIH ヒカリネット・イメージ

屋上に避難した職員たちは、迫りくる津波の前で最後の抵抗をしていました。

そのとき屋上で起きていたことが、1枚の写真に記録されています。庁舎職員の加藤信男さんがジャンパーの内側にカメラを抱えて屋上に上がっており、そのカメラのデータが奇跡的に残っていたのです。本体は壊れましたが、データカードは無事でした。

写真には、屋上で円陣を組む人々の姿が残されていました。男性職員たちが女性や高齢者、若い職員を内側に囲い、外側から両手を広げて体を張っている——生死の瀬戸際にありながら、近くにいる人を守ろうとしていた姿です。

津波は容赦なく屋上を飲み込みました。強烈な水圧と流れにより、多くの方が流されていきました。

生還したのは、佐藤仁町長ら10〜11名(資料により差異あり)。彼らは屋上中心のアンテナポール(高さ5メートル)や、屋上へ向かう鉄骨製階段の手すりにしがみついていたことで生き延びることができました。

加藤さん自身も津波に流されながら、副町長・遠藤健治さんが何度も体を引き起こし続けてくれたことで一命をとりとめています。

防災システム研究所の山村武彦氏は、この屋上の円陣の記録を著書『南三陸町 屋上の円陣』でまとめています。「犠牲になった人と助かった人の間に、明確な理由や共通の法則などありはしない」という言葉が、あの日の理不尽さと、それでも守ろうとした人々の尊厳を伝えています。

津波の高さと庁舎の構造

ここで少し、「防災理科」的な視点から津波の高さについて整理してみましょう。

南三陸町を襲った津波の高さは、庁舎付近で約15.5メートルと記録されています。これはチリ地震津波(5.5m)の約3倍。防災対策庁舎の屋上高さ(約12m)をさらに約2メートル上回りました。

なぜここまで予想を超えたのか。主な要因は初報の津波予想が過小評価になったことです。

東日本大震災はM9.0という観測史上最大規模の地震でした。気象庁が地震発生約3分後に発表した第1報では、地震規模をM7.9と算定してしまいます。当時の技術では、3分以内に正確なマグニチュードを算出することが技術的に困難だったためです(広帯域地震計が振り切れたことも一因とされています)。

その結果、第1報での津波予想高さは「3〜6メートル」程度にとどまりました。「これくらいなら大丈夫」という安心感が、避難のタイミングを遅らせた一因となったことは否めません。

津波そのものの仕組みや、なぜあれほどの力を持つのかについては、津波がなぜ起こるのか・そのメカニズム解説もあわせてご覧ください。

「津波の予想高さが低かったから逃げなかった」という判断は、当時の状況では必ずしも不合理ではありませんでした。問題は、想定が現実に追いつかなかった「情報の限界」にありました。この教訓は、後の津波警報改善に直結しています。

現在の南三陸町中心部は、復興工事によって海抜10メートルまで地盤が「かさ上げ」されています。そのため、旧防災対策庁舎のある一帯は周囲よりも低くなっており、訪れた人は庁舎の鉄骨を見下ろす形になります。「ここよりもさらに高い波が来たのか」という実感が、そこに立つことで初めて体感できる場所なんです。

保存か解体か、決定までの経緯

震災遺構の保存について話し合う人々のイメージイラスト
ふくしまの防災 HIH ヒカリネット・イメージ

津波によって骨組みだけになった防災対策庁舎。その後、「保存するか、解体するか」という議論が長く続きました。

保存を求める声がある一方で、「見るのがつらい」と解体を望む遺族も多く、維持管理費の問題もありました。南三陸町は2013年に一度、解体の方針を決定しています。

転機となったのは、宮城県からの「震災20年後まで県有化する」という提案でした。2015年1月、宮城県の有識者会議は庁舎を「県内の震災遺構候補の中でも特段に高い価値がある」と評価。同年6月のパブリックコメントでは町民の保存賛成が6割を超え、町議会でも保存の請願が全会一致で採択されました。

2015年12月、庁舎は宮城県に引き渡され、2031年まで保存されることが決まりました。

さらに2024年3月、南三陸町が震災遺構として町で所有・管理を継続することを正式に発表。2020年10月には庁舎周辺が「南三陸町震災復興祈念公園」として全面開園しています。

遠藤未希さんの母は、庁舎について「解体されると、津波の高さが分かる物が無くなり、震災が風化する」と語っていました。残すことへの葛藤と、伝えることへの願い。その両方が、今もこの建物に宿っています。

南三陸町防災対策庁舎が伝える教訓

復興した南三陸町と震災遺構が共存する風景のイメージイラスト
ふくしまの防災 HIH ヒカリネット・イメージ

率先避難者が命を救う理由

防災の世界に「率先避難者」という考え方があります。自分が真っ先に逃げることで、周囲の人が「あの人が逃げているなら」と避難を始める——人間の行動心理を活用した避難促進の考え方です。

内閣府・気象庁・消防庁が東日本大震災後に行ったアンケートでは、避難しようと思ったきっかけとして「大きな揺れから津波が来ると思ったから」が最多で、次いで「家族または近所の人が避難しようと言ったから」「近所の人が避難していたから」が続きました(内閣府・消防庁資料より)。

誰かが逃げる姿が、周囲の人を動かすのです。

遠藤未希さんの放送も、ある意味で「声の率先避難者」でした。彼女の声が続く限り、住民は「まだ逃げなければいけない」と感じることができた。あの放送がなければ、もっと多くの命が失われていたかもしれません。

自分が率先して逃げることは、決して「自分だけ助かろうとしている」ことではありません。むしろそれが、周囲の命を守る最も確実な行動のひとつなんです。

津波から命を守る避難の3原則

津波から命を守る避難3原則を示したイラスト図解
ふくしまの防災 HIH ヒカリネット・イメージ

南三陸町の事例から、津波避難の3つの原則を整理してみましょう。

原則①:警報を待たずに逃げる
強い揺れ・長い揺れを感じたら、津波警報の内容に関わらず、すぐに高台へ向かうことが基本です。南三陸町では初報の予想高さが過小評価だったため、「3階で大丈夫」という判断につながりました。警報の数値は目安であり、絶対ではありません。

原則②:想定の上を行く高さを目指す
ハザードマップの浸水想定範囲が「安全」とは限りません。東日本大震災では、津波はハザードマップの想定を大幅に超えました。「もっと高いところへ」という意識が命を守ります。

原則③:津波は繰り返す
1回目の波が引いても、第2波・第3波が来ます。波が引いたからといって戻ってはいけません。大津波警報・津波警報が解除されるまで、安全な場所にとどまってください。

震災遺構が果たす役割と意味

「なぜ壊れた建物をそのまま残しておくのか」と感じる人もいるかもしれません。

南三陸町防災対策庁舎が今も残っているのは、「記憶を風化させないため」という明確な目的があるからです。

現在、庁舎周辺の志津川地区は海抜10メートルまで地盤がかさ上げされています。そのため、周囲の道路や建物から庁舎を見ると、3階から屋上あたりが目線の高さになります。「あの高さまで波が来たのか」という実感が、言葉より雄弁に伝わる場所になっているんです。

隣接する「祈りの丘」の頂上は海抜20メートル。「高さの道」は津波の平均高さ16.5メートルの位置に設けられています。そこから旧防災対策庁舎を見下ろしたとき、あの日の津波の巨大さが初めて体感として理解できます。

震災遺構は「記念館」ではありません。次の世代に「本物の体感」を手渡すための装置です。私は防災士として、そう捉えています。

家族で決めておきたい避難計画

家族でハザードマップを確認しながら避難計画を立てるイラスト
ふくしまの防災 HIH ヒカリネット・イメージ

南三陸町の事例が示す最大の教訓のひとつは、「情報が来てから考えるのでは遅い」ということです。

遠藤さんたちは、職務として最後まで放送を続けました。しかし、その放送が届かない場所、停電で防災無線が使えなかった場所もあったはずです。

「情報がなくても動ける」準備が、家族には必要です。

家族で事前に決めておきたいこと

・自宅から一番近い高台・避難場所はどこか
・学校・職場・外出先から帰れない場合の連絡方法と集合場所
・「強い揺れを感じたらすぐ逃げる」というルールの共有
・津波ハザードマップで自宅・通勤路の浸水想定を確認
・「警報の数値を過信しない」という意識の家族共有

特に沿岸部にお住まいの方は、「強い揺れ=すぐ高台へ」を家族の合言葉にしてほしいと思います。情報を待つ時間が、命取りになることがあります。

また、避難場所は「一箇所だけ」決めておくと、状況によって使えないときに判断が遅れます。第1候補・第2候補を決めておくと安心ですね。

なお、津波からの避難に関する詳しい考え方は、(出典:気象庁『津波警報の改善のポイント』)もぜひ参考にしてください。

南三陸町防災対策庁舎から学ぶ備え

防災リュックを確認する家族のイメージイラスト
ふくしまの防災 HIH ヒカリネット・イメージ

最後に、南三陸町防災対策庁舎の記録から、私たちが今すぐ行動に移せることをまとめます。

あの日、防災対策庁舎は「過去の最大の津波(チリ地震)を教訓に設計された建物」でした。それでも現実の前に立ちはだかりました。これは庁舎の設計が間違っていたのではなく、「これまでの最大を超えることがある」という前提で備えを作ることの大切さを示しています。

津波警報は2013年3月、東日本大震災の教訓をもとに大幅に改善されました。M8を超える巨大地震に対しては、予想高さを数値ではなく「巨大」「高い」という言葉で発表するようになっています。数値による「3mなら大丈夫」という過信を防ぐための変更です。

しかし、どれだけ警報が改善されても、最後に命を守るのは「自分で判断して逃げる力」です。

遠藤未希さんは、あの日62回、マイクに向かって叫び続けました。「逃げてください」と。

あの声を無駄にしないために、私たちにできることは「逃げる準備を、逃げる前に整えておくこと」だと思います。福島であの日を経験した私が、今もっとも強く伝えたいことです。

数値データはあくまで一般的な目安です。正確な情報は公式サイトでご確認ください。最終的な判断は専門家にご相談ください。

本記事は公的資料をもとに作成していますが、災害の記録は調査の進展により数値が変わることがあります。最新の正確な情報は各省庁・自治体の公式情報をご確認ください。また、掲載内容は特定の個人・団体を批判するものではなく、防災の教訓を共有することを目的としています。

南三陸町防災対策庁舎が教えてくれた備え

南三陸町防災対策庁舎から私たちが学べることは、「知識と行動」が命を左右するという事実です。

あなたの備えを今すぐ確認してください。

あなたの防災度チェック

  • [ ] 強い揺れを感じたら警報を待たずに高台へ逃げると決めている
  • [ ] 自宅・通勤路のハザードマップ上の浸水想定を家族全員で確認している
  • [ ] 津波警報の数値を過信せず「もっと高いところへ」逃げる意識がある
  • [ ] 持ち出し袋が玄関にすぐ持って出られる状態にある
  • [ ] 家族全員で避難場所・連絡方法を確認している

南三陸町防災対策庁舎の教訓は「逃げる準備は、逃げる前に整える」ことを示しています。HIHの防災リュックは、その「準備」をすぐ始められるように設計されています。

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🛡️ 防災士監修記事

後藤 秀和(ごとう ひでかず)

防災士/株式会社ヒカリネット 代表取締役

2011年3月11日、東日本大震災を福島で経験。「あのとき備えていたら」という後悔をなくすため、防災士資格を取得しHIH(Hope is Here)を設立。防災セット累計出荷20万個超、法人導入実績300社以上。

この記事を書いた人

後藤 秀和(ごとう ひでかず)|防災士・株式会社ヒカリネット 代表
福島県で東日本大震災を経験したことをきっかけに、防災士の資格を取得。
被災経験と専門知識をもとに、本当に役立つ防災用品の企画・販売を行っています。
運営するブランド「HIH」は、個人家庭だけでなく企業・団体・学校にも多数導入され、全国の防災力向上に貢献しています。
被災経験者としてのリアルな視点と防災士としての専門性を活かし、安心・安全な備えを提案しています。

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